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快適生活研究所情報 2016年3月号

経営姿勢:当社は「いのち」と「こころ」を大切にする経営に徹します

経営理念:信頼のネットワーク、人に優しい天然素材で快適生活のお手伝い

(1)日本人の誇りを取り戻そうパート2 パラオが親日国である理由

 久しぶりに感動して涙を止めることができませんでした。
 2015年4月8日天皇、皇后両陛下はパラオのペリリュー島を慰霊のために訪問されました。一緒に飛行機に同乗した方はパラオに近づいた飛行機の中で雲が直立してお二人を迎えしていたと話されていました。英霊たちの喜びの表れでしょうか。
 パラオは1933年から日本の委託統治領でした(植民地ではありません)。日本はドイツが統治した頃手をつけなかった学校、病院、道路の整備などインフラを整備し、貨幣経済に移管していきました。町を近代化し、多くの日本人が住み着いたそうですが、パラオ人を差別扱いすることはありませんでした。
 1944年、限りなく透明な海を熱帯魚が乱れ舞う美しい島ペリリュー島で日米の死闘が繰り広げられたのです。しかし戦うまでもなく日米の差は歴然としていて、物量の差だけではなく戦力を見ても相撲で例えると横綱と序二段ぐらいの差がありました。戦車でいうと日本のものはぺらぺらの鉄板で出来たもの16両、米国はというと当時の最高性能を持った分厚い鉄板で出来た戦車117両。米国兵士達は戦いが2、3日で終わると豪語していたほどです。それほどの差があったのです。島民は「愛する日本と共に戦いたい」と中川州男(くにお)守備隊長に申し出ました。すると日頃は温厚な隊長が激しい口調で「帝国軍人が貴様らごとき土人と一緒に戦うことが出来るか」と怒鳴りつけたのです。日頃一緒に肩を組み飲み食い歌っていたのに、あれは見せかけだけだったのか。やはり、日本兵達も我々を見下していたのだと人々は怒りと悲しみで拳を震わせていました。島から島民たちが避難船に向かう時、日本兵たちは誰も見送ることはありませんでした。しかし島民が避難船に乗り込み、島を離れた瞬間、日本兵全員が砂浜に出てきて「達者で暮らせよ」と声を掛けたのです。涙で顔をぬらす兵士もいました。島民たちは日本軍が島民全員を安全な避難先に疎開させることで保護してくれたことを後で知りました。だから島民の死傷者は一人も出なかったのです。1944年パラオは独立を果たしましたが、今も島民たちは日本軍への感謝を忘れていません。「日本と一緒に戦いたかった」「日本人になりたかった」と言う当時を知るパラオ人が沢山いらっしゃいます。ですから天皇、皇后両陛下のご訪問を全島民が歓迎してくれたのです。
 戦後生まれの日本人は私を含めてこの史実を知りません。当時アジアを植民地支配し、彼らを奴隷のように扱っていたオランダやドイツと違い、日本はインフラを整備するなど現地の人達のために尽くしたことを知りました。主に二つの国から戦前の日本のことを帝国主義だとか植民地支配だとか非難されても、台湾でもインドネシアでもフィリピンでも日本は歓迎されていることがその証です。日本人に生まれてきて良かったとしみじみ感じました。

(2)まもるくん豆知識 感染症ジカ熱にも「まもるくん」

 ジカウイルスを持つ蚊が媒介する感染症ジカ熱が中南米を中心に流行し、感染は42カ国に拡大し、感染者は400万人に及ぶだろうと言われています。WHOは2月1日緊急事態を宣言しました。今のところ有効なワクチンや治療薬はないそうです。日本は幸い蚊がいない冬で幸いでした。「まもるくん」は蚊の予防に、感染症の予防に有効ですのでご利用下さい。